※バードソンのしくみについてはこちらをご覧ください

学生バードソンと(財)日本野鳥の会バードソンとは関わり合って変化してきました。その関係は少し複雑なので、わかりやすく年表にしました。年表中の下線@〜Eをクリックすると、詳しい経緯や当時のスタッフの思いなどを載せたページへ飛びます。
バードウォッチング競技と募金活動が融合したバードソン
その始まりはイギリスからでした
日本で初めてバードソンを開催したのは(財)日本野鳥の会です
そして、(財)日本野鳥の会バードソンに学生が参加したことをきっかけに、
「学生バードソン」が始まり、現在では学生が独自に運営する
「NEC学生バードソン」へと変化しています
このページでは、学生バードソンの移り変わりを、
当時関わったスタッフの思い、苦労話などを交えてお伝えします。

      学生バードソンの歴史
          


















バードソン年表
  

開催年
(開催日)
日本野鳥の会
バードソン

[募金金額]
学生バードソン
[募金金額
]
募金先 F.A.N(学生)の動き・立場 実行
委員長
(学生)
’86
第一回
[880万円]
鶴居・伊藤タンチョウ
サンクチュアリ
’87 第二回
[1.780万円]
鶴居・伊藤タンチョウ
サンクチュアリ
’88
(6/4,5)
開催されず
第1回
[1.600.827円]
鶴居・伊藤タンチョウ
サンクチュアリ
鶴居・伊藤タンチョウサンクチュアリの学生ボランティアが実行
「学生対抗バードソン」@
箱田
’89
(6/4)
第三回
[1.220万円]
第2回
[669.307円]
(財)日本野鳥の会
『野鳥を科学する基金』
(F.A.N結成)
野鳥の会バードソンにFUNギャルズAが公式チームとして参加
小倉
’90
(11/3)
第四回
[1.250万円]
第3回
[16.300円]
(財)日本野鳥の会
『野鳥を科学する基金』
野鳥の会バードソンに 学生の中からオープンチームBが1チーム参加
’91
(11/3)
第五回
[1.500万円]
第4回
[371.506円]
(財)日本野鳥の会
『野鳥を科学する基金』
野鳥の会バードソンの学生部門としての『学生バードソン』の始まりC 勝田
’92
(11/1)
第六回
[2.180万円]
第5回
[302.470円]
仏沼湿原買い上げ 勝田
’93
(10/31)
第七回
[2.120万円]
第6回
[228.091円]
出水のタンチョウ越冬地買い上げ 勝田
’94
(11/13)
第八回
[1.730万円]
第7回(NEC)
[1.235.737円]
(財)日本野鳥の会
『野鳥保護基金』充実
NECの協賛を得て大規模な展開となるD 片山
’95
(10/8)
第九回
[1.470万円]
第8回(NEC)
[1.005.175円]
(財)日本野鳥の会
『野鳥保護基金』充実
’96 日程調整のため開催されず
’97
(5/11)
第十回
[1.240万円]
第9回(NEC)
[811.007円]
(財)日本野鳥の会
『里山基金』
瀬古
’98
(5/10)
第十一回 第10回(NEC)
[513.567円]
(財)日本野鳥の会
『里山基金』
掛下
’99
(6/20)
第11回(NEC)
[1.149.605円]
ウトナイ湖サンクチュアリ 『学生バードソン』独自の展開となるE 木内
’00
(7/2)
第12回(NEC)
[1.081.597円]
霧多布湿原トラスト
(湿原のトラスト費用)
松井
’01
(6/3)
第13回(NEC)
[1.248.308円]
霧多布湿原トラスト
(湿原のトラスト費用)
長谷川
’02
(6/2)
第14回(NEC)
[894.991円]
霧多布湿原トラスト
(湿原のトラスト費用)
本川



学生バードソンの移り変わり 〜経緯とスタッフの思い〜
 

@学生バードソンの始まり―学生対抗バードソン!―
今から遡ること16年(1987年)、学生だった現F.A.Network代表の高橋さんは悩んでいました。

「自然環境保全の重要性がマスコミ、行政等から叫ばれる中で、我々学生も勉強会やシンポジウムなどの机上のものではなく、何か形として成果を挙げられる活動はないだろうか。しかし、単なる反対運動や街頭募金のようなやり方では、一般の学生は参加しないし、自分たちもやりたくない…」

そんな時に出会ったのが「バードソン」でした。「バードソンというイギリス生まれのチャリティーイベントがあるので、参加してみないか」と誘われ、何もわからないまま「(財)日本野鳥の会」の主催するバードソンにサークルの有志で参加しました。

高橋さんはそこで非常にインパクトを受けたといいます。参加してみて初めて分かったというバードソンのメリットは、以下のようなものでした。

 ・ バードウォッチングの楽しさが分かる
 ・ 多くの人が一度に参加できる
 ・ チーム参加・募金・募金集めなど、様々な関わり方ができる
 ・ 日本全国どこでも参加できる
 ・ 募金額という形で、成果が明確に見える
 ・ チームごとに独自の楽しみ方、参加方法が可能(ドライブしながら、学園祭の中で、ハイキングしながら)

つまり 「楽しみながら成果を挙げることのできるイベント」 まさに高橋さんが求めていたものでした。そこで、次の年は学生の間でもバードソンを普及させようと、サークル内だけでなく他大学にも呼びかけを行いました。こうして準備を進めていましたが、88年は野鳥の会のバードソンが開催されないことになりました。しかし学生たちは既にバードソンへの意欲に燃えており、自分たちの手でバードソンを開催することを決意したのです。全国の学生たちへ呼びかけを行い、鶴居・伊藤タンチョウサンクチュアリのボランティアを中心に実行委員会を組織しました。OBや知り合いを回ってお金を集め、NGOへ協力を求め、「学生対抗バードソン1988」の開催を果たしたのです。この時の学生スタッフは約200人、個人スポンサー数は2500人以上、募金総額は最終的に200万円を超え、大成功を収めました。

 こぼればなし
 初めてのバードソン運営では、10ヶ月程の準備期間がかかりました。何しろ一から始めたことなので 予想外のこと も多く、大学同士でケンカになったり、活動資金が不足したりと、悩み事ばかりで日々徹 夜の連続だったそうです。
 その結果として、学生の力でこれだけの募金を集めたことで、世間に大きな反響を呼び、学生たちも自信をつける ことができました。



A“FUNギャルズ”の活躍
学生対抗バードソンの翌年(1989年)、日本野鳥の会主催のバードソンが復活しました。学生対抗バードソンをきっかけに大学の枠を超えて結成されたF.A.Networkのメンバーは、学生として何かインパクトのあることをしたいと考え、女子大生チーム「FUNギャルズ」を結成、野鳥の会バードソンに公式チームとしてエントリーしました。

当日は、フォロースタッフとして50人もの女子大生が、ピンクのTシャツを着て原宿や江ノ島を練り歩き、キャンペーンをしたそうです。これには、明るいイメージでバードソンを行い、自然保護の堅いイメージを解きほぐそうというねらいがありました。
また、バードソンの競技項目である確認種数・募金者数・寄付金額のうち、確認種数や寄付金額では他地域や社会人にはかなわないと考え、募金者数のトップを目指そうという目標もありました。様々な大学の自然系サークルの学生から募金を募った結果、寄付金額は67万円、募金者数は900人で、この年のバードソンで見事トップになりました。

 どうして「女子大生」だったのでしょうか?
 当時は、フジテレビの夜の番組で「オールナイトフジ」という番組をやっていて、女子大生が大勢出演していました。 これが人気を呼び、今度は女子高生や女子中学生をターゲットとした「夕焼けニャンニャン」「おにゃんこクラブ」に 発展し、一世を風靡しました。この世の中の流れをくんで、女子大生を前面に押し出したのだそうです。
 バードウォッチングをする女性が少なかった時代に、『イマドキ』の女子大生が、バードウォッチングイベントのキャンペーンをすることで、世の中の注目を集めたのです。



B“オープンチーム”って?
1990年は日本野鳥の会のバードソンにオープンチームとして1チーム、学生チームが参加しました。
“オープンチーム”とは、公式チーム以外で、もっと気軽に参加できるチームのことです。
この年は学生の実行委員というものは特に組織されませんでしたが、この時のメンバーが「学生としてもっと何かできないのか?」と考え、翌年、野鳥の会バードソンの学生部門としての「学生バードソン」が開催されました。



C野鳥の会バ−ドソンの学生部門を作ろう!
1991年にオ−プンチ−ムとして「(財)日本野鳥の会」の主催するバ−ドソンに参加したメンバ−は考えました。
「野鳥の会のバ−ドソンにオ−プンチ−ムとして参加するだけではなく、『学生として』もっと何かできないだろうか」
こうして考えたものが、日本野鳥の会のバ−ドソン部門としての『学生バ−ドソン』でした。
この『学生バ−ドソン』は、学生バ−ドソンの代表として1チ−ムが「(財)日本野鳥の会」のバ−ドソンに公式エントリ−し、その他多数の学生チ−ムがオ−プンチ−ムとして参加するものでした。(下図参照)


  


この形式は、1998年に「(財)日本野鳥の会」バ−ドソンが行われなくなるまで続きました。



DNECの協賛で大規模な展開となる
1994年からは、NECの協賛を得て、バ−ドソンは大規模な展開となっていきます。以前よりももっと視覚に訴えられるパンフレットを作成できたり、チ−ムが連絡を取り合うときの交通費、電話代などが負担されて、学生がネットワ−クを駆使して、より活動を大規模に展開できるようになりました。どのような経緯でNECの協賛を得ることになったのでしょうか。

1994年、当時のスタッフであった大学3年生の片山さんは、バ−ドソンの学生実行委員長でした。当時、「もっと活動資金があれば、その資金で、今よりきちんとしたパンフレットを作ったり郵送費や電話代に充てたり、景品を出したりなどして、より大規模に学生の間でバ−ドソンを盛り上げることができるのに。」と考えていました。その当時、バ−ドソンは、以下のような仕組みで行われていました。    



   

野鳥の会公式チ−ムになると、

 @ 野鳥の会から活動資金を貰う 
 A 自分達が活動資金を負担する

このどちらかの方法で活動することになります。しかし、学生の公式チ−ムである、「野鳥学生地球の仲間」1チ−ムが野鳥の会から活動資金を貰うだけでは、「学生バ−ドソン」の資金は十分ではなかったのです。そこで、協賛を集め、学生バ−ドソンを盛り上げようという話がミィ−ティングの中で出てきたのでした。


 協賛を得るまでの道のり
 協賛を得るために中心となって動いたのは、当時大学3年生の片山さんと、江藤さんでした。彼らは、会社四季報で社会貢献活動を行っている大企業を調べ、およそ2人で100社程、しらみつぶしに電話をかけていきました。
 
 「学生の自然保護団体で、協賛金を得たい。」という趣旨の話を電話口ですると、ほとんどはその場で電話を切られてしまいます。企画は全部出来ているのに、協賛企業が集まらない…。電話をかけてもかけても切られてしまう….。前に進めない。焦り。
 「今度もまた切られてしまうのではないか…」片山さんは夏の暑い部屋の中で、そのような思いと戦いながら1時間 くらい電話を見つめていたこともあったそうです。広報室に電話をつないでもらえたのは、数えるほどの企業でした。実際に企画書を送って欲しい、会ってくれる、という話になったのは、NECを含めてわずか3社であったそうです。


 NECとのやりとり
 当時NECは、自然保護関係の活動の協賛先を探していました。片山さんははじめ電話で、「学生に協賛を出すのは 難しいですよ」と言われたそうですが、「企画書だけでも見て欲しいのです」と、企画書を見てもらったところ、会って話が出来ることになりました。
 実はこのとき、NECがWWFに電話をしてF.A.NETWORKの名前を尋ねた所、電話を受けた職員さんが「一生懸命やっ ている団体だよ」と紹介してくれたことが、この後の展開に大きく影響したといいます。片山さんは後にこのエピソ−ドを聞き、あらためて人と人のネットワ−クの大切さを実感したそうです。
 NECの人と話をした後の片山さんは、「これはいける」そんな感触を確かに感じたそうです。その後、NECから協賛を もらえるということになったのです。
 ただし条件がありました。野鳥の会の公式チ−ムに協賛するのではなく、あくまで「学生バ−ドソン」に協賛したい。この話を野鳥の会に報告し、問題はないとの返答を得ました。

 1994年の夏の、このような経緯を経て、NEC(日本電気株式会社)から協賛を得ることになったのです。1994年の実績は、募金額が123万と、第1回、第13回に次ぐ成果を納めました。
 また、参加チ−ム数67、募金者数は1747名で、学生バ−ドソン史上最高となりました。以来、2002年の第14回までNECの協賛を得てバ−ドソンは行われています。


NECとの交渉にあたった片山さんからお話を聞きました

協賛を得たときの気持ちについて
 「やった!」とにかく、それに尽きる、ということでした。
 それと同時にNECへの深い感謝があったそうです。

協賛を得るまでの長い道のりを支えていたのは、何だったのでしょう
 後には引けない、ぎりぎりまで協賛企業を探そう、協賛企業がみつけられなかったら、その時はその時だが、絶対  に協賛企業は見つかる。とにかく自分達がやっていることに自信があったからこそ、この自然保護活動に必ず協賛 してくれる企業はあるはず、という確信があったそうです。



E学生が独自に展開していくバードソン!
1999年からは、「(財)日本野鳥の会」でバ−ドソンが行われなくなったため、学生バ−ドソン独自の展開となっていきました。募金先も、学生が独自に選んでいく形となっています。1999年は北海道・苫小牧市のウトナイ湖サンクチュアリに、また2000年からは北海道浜中町にあるキリタップ湿原に設定されて行われてきました。
学生が独自に展開するバ−ドソン・・・
これから先の学生バ−ドソンも楽しみです。